僕は死ぬのが怖かった。

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僕は20代前半くらいまで、死ぬのがめちゃくちゃ怖かった。
 
家でシャワー浴びてる時とか、
バスに乗ってる時とか、
ふと思い出す
「自分はいつか死ぬんだ」ということ。
 
それがもう頭おかしくなるほど怖くて。
自分はいつか死んで、終わりが来てしまう。
「アーッ!!!」っと頭を抱えてかきむしる。
 
この人類も地球もいつか終わりがくる。
そんな永遠の時を考えると、
もう怖くて怖くて仕方がなかった。
 
それを避けるためには、
それを考えないようにするというそれだけだった。
 
それが始まったのは小学校低学年時くらいかな。
「死」というものを知り、
すごく泣いていた時期があった。
その時僕は母親に「死ぬのが怖くないの?」と尋ねたことがある。
 
母親の答えは「創也たちが生きていてくれたら、思い残すことはないから怖くないよ」
だった。
僕はその答えの意味、母親の気持ちが全然理解できなかったけれど、
とにかくすごく印象に残っている。
 
 
今は死ぬことを意識しても怖いと感じることがかなりなくなった。
その要因はたくさんあるけれど。
 
その一つはこの自然、そして宇宙、世界についての認識がだいぶ変わったことがある。
 
それは
「この宇宙は生きていて、全て繋がっているということ」
とても優しくて、暖かいものであるということ。
 
自分が大切な人を思う時、心が温かくなるように、
この宇宙のことを愛おしく思えるようになったし、
宇宙が自分を愛おしく思っていると確信できるように、
感じられるようになったからだと思う。
 
 
言葉で書くとすごく陳腐で、
自分でもよく分からないだろうなと思って書いているのだけれど、
これは感覚的なものなので説明が難しい。
 
 
の記事にも少し書いたように、
 
私たちは死んでも
その情報は決して消えることはなく、
この宇宙の源に還り、
そしてそれが新たな創造の種として芽吹く。
 
それを繰り返しながら成長していくのが、
この宇宙の本質であり理のようだ。
 
そして「個の意識」がなくなってしまうことも、
死へ恐怖を感じる要因の一つであるが、
「意識」というもの自体も人間固有のものというわけではなく、
本来は全てのものに元から備わっているもの、
むしろ「意識や精神」と言ったものが最初にあり、
それが実体化したものが物質であると今は考えている。
(情報の波が干渉することによりホログラム的に現実化されているのではないか)
 
 
もちろんこんな話を聞いただけでは納得できなかったと思う。
そんな不思議な話に自分なりに確信が持てているのは、
畑づくりをしているからだと思う。
 
畑づくりを行うには、
(特に自然農的なやり方だと)
自然の法則を理解していなければならない。
自然の法則は宇宙の法則。
 
それは地球上のどこにいようと、
どんな小さい空間だろうと
変わらないもの。
 
それを日々畑の中で向き合っていると、
小さな畑、小さな命との触れ合いを通して、
この世界との果てしない繋がりと安らぎを感じる。
 
何が不自然で、何が自然か。
何が理で、何が理ではないのか。
何が本質で、何が本質でないのか。
 
日々変化し、
固定概念を壊し続ける自然相手だからこそ、
そこに漂い残る理の世界を見つめ続けることになる。
 
すぐ忘れてしまうのだけれど、
この世界は果てしなく面白く、
果てしなく優しい。

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